第二話:ロックがすべて


第二話、1980年。今から40年前、私は高校生になっていた。ひょろひょろの青二才だった。70年代の10年間は、自分が幼少期から聞いていたビートルズに始まり、レッドツェッペリンやディープ・パープル、セックス・ピストルズに代表されるパンクロック、イエスやピンクフロイドのようなプログレッシブロック等、ロックというロックにすっかりはまり込み、打ちのめされ、自他ともに認めるロック・ジャンキーに変貌した10年だった。そうなれば今も昔もやることは同じ。近所の友達とロックバンドを組み、隠れて酒を飲み、モクを吸い、下手くそな演奏で『サティスファクション』をがなり、高校の文化祭でギターを叩き壊したりしていたわけだ(ちなみにその年にヒットしたクラッシュのアルバム『ロンドン・コーリング』のジャケットは、ステージでギターを壊すシーンを撮ったものだが、決してあれを真似したわけではない)。それはとある先生が不当な理由で左遷されたことに抗議してのことだ。そう記憶しているが定かではない。否、そうではなかったかもしれない。若気の至りというやつか。訳もなくこみあげて来る怒り、その怒りをぶつける先を絶えず探し歩いていたからだろうな。衝動に駆られてやっちまったな。粉々になったギターの破片を観客席に投げ込みながら私はそう自分で納得した。

当時としては時代遅れの長髪をなびかせ、革ジャンに黒のジーンズを穿いて学校に通い、授業中も教科書の代わりにこっそりロッキングオンやギターマガジンを読み耽るのが日課だった。放課後は悪友とつるんで学校の教室にバンド機材を無断で持ち込み、大音響で『アナーキー・イン・ザ・UK』や『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』を弾いていた。びっくりして飛んできた校長や生活指導の先生にこっぴどく叱られたが、翌日にはまた懲りずに空いている教室を探して『ユー・リアリー・ガット・ミー』をかき鳴らした。早い話不良。問題児。ギター・ケースを背中に担いで学校の周りをうろうろしていた不逞の輩だ。“よくぞまああんな自堕落な生徒がこんな立派な社会人になれたもんだなー”と、それから5、6年たって一端のサラリーマンになった私に再会した高校の同級生がそう言っていた。ただ十代の頃の自分は、バンド活動を半端な気持ちでやっていたわけでは決してない。むしろ真面目にロックに取り組んでいたしプロも目指した。世の中のいろんな出来事や周囲に対して批判精神を強く持っていた。時に怒り、時に不満を述べ、時に叫んだ。そうすることが次の時代を作る原動力になると信じていた。まあ、結局たいそうな人物にはなれなかったけれど、その思いは正しかったと今も確信している。不良で問題児だが、いたって真面目に世の中を見ていた男。それが10代の頃の私だ。

それにしてもかったるい時代だった。1980年は前年末のソ連によるアフガニスタン侵攻が引き金になって、米ソ冷戦が最悪の時期を迎えた年だ。モスクワ・オリンピックは西側諸国がボイコットし、日本も不参加となり、幻の五輪になった。ポール・マッカートニーはその年の1月にソロとして初来日したが、大麻所持で国外退去となり、幻の日本公演になった。12月にはジョン・レノンが“キ”印のファンの凶弾に斃れ、ビートルズ再結成は永遠に幻となった。1970年もそうだったが、1980年もなんとなく時代の踊り場的な、先行きへの不安感に苛まれるような、えも言われぬ雰囲気が漂っていた気がする。パンクブームが落ち着いて、ニューウエーブというややレイドバックしたロックが流行り出したのはこの頃だが“あくせくしないでノンビリやろうよ!”的な、独特のまったり感がすごく嫌いだった。それをわざと避けるように、一昔前のヘビメタやプログレに没頭していたのだが、最後は時代の波には逆らえず、トーキング・ヘッズやプリテンダーズなんかもコピーしていたなあ。なーんだ、結局日和ってたんじゃないのよって言われそうだが、そう、軟弱なところも大いにありましたよ。青春ですからね。

ああ、またしてもダラダラと書き綴ってしまった。ごめんなさい。そして第一話に続いてお茶とは何の関係もない話になってしまった。次回こそは何等かの形でお茶に触れてみたいのでお許しを。(つづく)

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